上方落語と東京落語
角川書店のPR誌『本の旅人』2010年3月号で作家の田中啓文氏が上方落語と東京落語について興味深い論評を書いている。
同氏は関西在住ということもあり、普段聴くのは上方落語である。私も落語を聴くならば上方落語なのでその点は似ている。上方落語と東京落語について以下のように指摘している。
東京落語はストーリーを洗練させるあまりに、「私に言わせれば、ストーリーの進行に関しては無駄なその枝葉こそが笑いの素なのである」(p.117)と言い、上方落語はストーリーよりも笑いに重点を置いていることから「作品として磨き上げるか、客を笑わせるかといわれたら、断固笑いを取りたい」(同)と主張する。
私は母語とする上方ことばであるが故に、自分が上方落語を好んでいると感じていたのだが、田中氏の説明で目から鱗が落ちた思いがした。上方落語は、『たちきれ線香』のような人情噺や、『佐々木裁き』のような奉行(侍)の機転で「なるほど」とする噺などがあるにせよ、基本は「いかにして聴衆を笑わせるか」に主眼があるのである。「なるほど」と得心したり教訓を得たりするための噺がメインではないのだ。
三代目桂枝雀がとことん笑いを追求したことが象徴しているように、上方落語を動かす原動力は「笑いを求める力」なのである。噺家が笑いを追求し、観客もとことん笑いを求める。そして、ここぞというときに『たちきれ線香』を聴きたくなるのだ。
決して、東京落語をおとしめるつもりは無いし、東京落語に「笑い」が無いというのでは無い。そして東京落語を全く聴かないということも無い。好きな東京の噺家はちゃんといる。ただ、上方落語と東京落語が目指す完成形の違いが、なんとなくわかってきた気がしただけである。そしてまた、落語会に行きたくなってきたのであった。
同氏は関西在住ということもあり、普段聴くのは上方落語である。私も落語を聴くならば上方落語なのでその点は似ている。上方落語と東京落語について以下のように指摘している。
東京落語はストーリーを洗練させるあまりに、「私に言わせれば、ストーリーの進行に関しては無駄なその枝葉こそが笑いの素なのである」(p.117)と言い、上方落語はストーリーよりも笑いに重点を置いていることから「作品として磨き上げるか、客を笑わせるかといわれたら、断固笑いを取りたい」(同)と主張する。
私は母語とする上方ことばであるが故に、自分が上方落語を好んでいると感じていたのだが、田中氏の説明で目から鱗が落ちた思いがした。上方落語は、『たちきれ線香』のような人情噺や、『佐々木裁き』のような奉行(侍)の機転で「なるほど」とする噺などがあるにせよ、基本は「いかにして聴衆を笑わせるか」に主眼があるのである。「なるほど」と得心したり教訓を得たりするための噺がメインではないのだ。
三代目桂枝雀がとことん笑いを追求したことが象徴しているように、上方落語を動かす原動力は「笑いを求める力」なのである。噺家が笑いを追求し、観客もとことん笑いを求める。そして、ここぞというときに『たちきれ線香』を聴きたくなるのだ。
決して、東京落語をおとしめるつもりは無いし、東京落語に「笑い」が無いというのでは無い。そして東京落語を全く聴かないということも無い。好きな東京の噺家はちゃんといる。ただ、上方落語と東京落語が目指す完成形の違いが、なんとなくわかってきた気がしただけである。そしてまた、落語会に行きたくなってきたのであった。
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