落涙

気持ちも身体もどうしようもなく疲れて,僕は身体を横たえることのできる部屋で横になっていた。
「何か楽しいイメージを思い浮かべよう」そうすれば気持ちは楽になるだろうと思った。

無意識のことで、なぜそのイメージが舞い降りてきたのかは説明ができない。

僕は電車のロングシートの端っこに座って、手すりに寄り掛かるようにしてハードカバーの本を読んでいた。ふと本から顔を上げ、大きな車窓を振り返ると新緑が眩しい。春らしい日差しが、車内にまで入り込んでいる。次に停まった駅から吹いてくる風が暖かくて気持ちよかった。阪急電車の神戸線。子どもの頃から乗り慣れた路線の、特急ではなくて普通(各駅停車)に乗っていた。王子公園、六甲、御影、岡本・・・。そのあたりの風景だ。六甲の山々の緑が鮮やかでまばゆい。

そんなイメージの中で、僕は不意に涙をこぼした。涙があふれてきて止まらなかった。ハンカチを目の上に置いて、誰もいない部屋で目からは涙があふれていた。

親しい人が出てくるわけでもない。友達が出てくるわけでも、好きだった人が出てくるわけでもない。電車の中には、見知らぬ乗客たちが乗っている。ある人は座席に座り、ある人はつり革につかまっている。イメージの中の暖かな空気の中で、ただ「幸せだったなぁ」と感じた。いつの頃なのかはわからない。若い頃、学生時代か社会人になりたての頃だろうか。何がどう幸せだったのか説明はつかない。それが不意に、脳裏に降りてきた。僕は、幸せそのものだった。あるいは、これから見る風景なのだろうか。今、一番見たい風景なのだろうか。

鞄の中を手で探った。涙を隠すように、僕は目薬を多めに差した。上を向いて、両目にたっぷりと。

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