吉村昭『私の文学漂流』(ちくま文庫)を読む

 2006年に亡くなった小説家吉村昭が1992年に出版した半生を振り返る自叙伝の再文庫化である。幼い頃から本が好きで、家にあった本を読みふける少年だったという。その当時、父親に本を読むと精神衛生上良くないという主旨の言葉を言われていたらしい。高学歴の人が多く悩んだ時代だったのだろう。僕はそこまでは親に言われなかったが、「また本ばっかり読んで・・・」と呆れられたことならある。現在の住居の様子を見ればさらに呆れるだろう。
  夫人の津村節子氏も小説家である。本書には同人誌などの活動を通じて知り合い結婚したいきさつから、夫婦で作家活動を行うことについてジャーナリズムから揶揄されたことなど、家族の中に作家が2人いる生活について、当事者の目から書いている。
 初期は「死」や「骨」をテーマにした短編を書いていた作者が、戦艦武蔵の建造時の資料から材を得た『戦艦武蔵』をきっかけにして創作スタイルを変化させていく経緯が面白い。本人は自覚しないうちに2つのスタイルで小説を書き続けていたという。どちらのスタイルも、取材に基づいて執筆されている。全くの想像からは創造はできないのである。これは肝に銘じておきたい。
 作者の執筆活動において欠かせないのが同人誌活動である。大学時代に同人活動を始めて、同人誌で執筆力を培ってきたことがよくわかる。僕は同人誌に参加したことはないが、文藝の同人誌の真似をしようとして大学在学時に学科の仲間に原稿を依頼して同人誌っぽいものを作ってみたことがある。残念ながら創刊号を以て休刊号になってしまったが、あれを続けていれば面白かったかもしれない。解説で稲葉真弓氏が書いているが、現在は同人誌活動が高年齢化し、文芸誌の同人誌評も長い歴史の末に終了したらしい。今やそれはインターネット上に移行したのだろうか。それともジャンルとして廃れたのか、あるいはエンターテインメント志向の同人誌へと変貌を遂げたのだろうか。詳しいところはよくわからないが、現住地近くの書店には地元の文学を愛好する人々による年刊の同人誌が売られている。手に取ってみたところ、やはり平均年齢はかなり高そうだった。
 「小説の書き方」の類は文章修行のためもあって時々買って読むことがあるが、実はいままでに小説を書いたことはない。19歳のときに週刊少年漫画誌が募集した漫画原作のコンクールに応募して、3次予選まで残ったことならある。それ以来、小説や漫画原作などまるっきりフィクションの創作活動はしていない。
 もうあれから20年近くが経ち、小説も書いてみたい希望はある。しかし現在取り組んでいる短歌や俳句、川柳もそうだが何かしらの創作活動をするときは、溢れんばかりの創作意欲と脳内の躍動感が必要なのである。次から次へと作品の骨子ができることもあれば、紙とペンを持っても何も出てこないことも往々にしてある。小説ならば細切れの、単発的で突発的な集中力では最後まで続かないだろう。
 もし、僕が小説を書くことに夢中になるならば作者の若い頃のように、勤めが終わって帰宅した後に明け方まで書くだろうか。現代の作家はむしろ、昼間勤める人のように朝から夕方まで時間を決めて書く人もいるという。睡眠不足だとどうにもこうにも気力が充実しない体質でもあるので、やはり夜に勢いにまかせて書いたところで、翌朝再読すればこっ恥ずかしい文章ができあがっているに違いない。
 作者は、執筆についてこう書いている。兄が経営する会社に勤めていて多忙になり、ほとんど小説を執筆しなかった頃の状況である。

「原稿用紙に字を刻みつけていないと小説を書く頭の働きは鈍り、その期間が長くなればなるほど、それは恢復不能の状態になることを経験で知っていた。泉は絶えず汲み上げていれば清らかな水が豊かに湧くが、汲むことがない折には、涸れる。」(p.181)

 僕は現在、ブログやSNSに毎日のように何らかの文章を書いている。スポーツをずっとしてきた人が朝にジョギングをするのと同じだろうか。書くことが好きなので印刷媒体にも挑戦してきたが、さしあたって掲載されるような代物を書いていない時期であっても何かを書いていたいのである。平安朝の昔から日本人は日記好きで、それが現代においてはブログ文化として開花しているのだが、僕もその中の一人である。紙の日記は三日坊主の域から出られないが、オンラインのブログ日記なら割合続く方なのだ。長い文章の執筆もそうだが、キーボード入力の手軽さも大きな要因だろう。ただし、私信は手書きの手紙やはがきを書く。子供の頃に家にワープロ専用機が来たときには物珍しさもあって何かに付け印刷だったが、大人になってからは私信はほぼ100%、手書きである。
 私は吉村氏のように若い頃から小説を書いてきたこともなく、これからも小説家で身を立てるようなことにはまず、ならないだろう。圧倒的に想像力が欠如しているからである。上で述べた漫画原作も、SF的な設定なのに、状況がどうも常識的な範疇に収まっていたのである。それが最終予選を突破できなかった最大の原因に違いない。
 だが、これからも何らかの形で文章は書き続ける。豊穣な日本語を母国語として生まれ育ったからにはその世界に身を置かない手はない。本書を読んで、なおのこと日本語に対する愛着が深まった。それをどうアウトプットしていくかが今後の自分の課題だろう。インターネットは情報としては玉石混淆(石の方が多いようだ)だが、持論や自説、時には創作の舞台としては最終形ではない。やはり、書籍化をもって完成形となる。インターネットが性質上不安定で不確定なものであることが利点でもあり、弱点でもある。21世紀の表現者たちはインターネットに呑み込まれてはどうにもこうにも伸びしろが無い。巨大な何者かの掌の内で転がされてしまうようなイメージである。映像にしろ静止画にしろ、あるいは文章にしろ、結局はインターネットからどこか発展したところで表現してようやく世間に広く認められるような気がする。
 手書き執筆が当然の方法で、困難を乗り越えて同人誌を出していた時代とは時代背景が全く違う。しかし、文章に懸ける志のようなものは21世紀の今も同じだろう。文章はますます、時代を反映していくのである。命を削ってまで書く時代では無く、ステップを踏むようにして軽やかにかつ機械のように緻密に書くことが求められているようだ。インターネット文化は忘却することを忘却した文化なのである。思わず膝を打つような名人芸も同時に求められる。お金を出してまで買う本や雑誌には、それだけのものを求めたいという消費者心理もある。吉村昭という作家のエッセイを読めばその緻密さがわかる。文章を書く上で参考になったことを覚えている。エッセイや回想録には、書き手が持つ技量が表れるように思う。

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この記事へのコメント

yo
2009年03月19日 05:33
文章を書くことについてスティーヴン・キング氏は、「本を読む時間がないという人は、つまり書く時間も道具もないということだ。多読せずにうまく書けるようになるわけがない」というような内容のことを書いていましたが、I君はこの条件を軽くパスしていますね。以前送ってもらった『流星ワゴン』をいまやっと読んでいます。すごくいいです。
2009年03月21日 22:20
コメントありがとう。読み続け、書き続けます。

また面白い本があったら送るよ。

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